伊達 政宗  (慶長遣欧使節団)


 慶長遣欧使節けいちょうけんおうしせつとは、慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗が フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、エスパーニャ帝国(スペイン)の国王フェリペ3世、およびバチカンのローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節である。

 慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。 地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャへ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

 そして伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れスペインを経てローマに赴くことになった。 石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。 アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。


 1615年1月30日(慶長20年1月2日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日(元和元年9月12日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見するが、スペインとの交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620年9月20日)、帰国した。

支倉常長がローマ教皇に謁見したときの絵。サン・ファン・バウティスタ号が左側に描かれている

 伊達政宗は、仙台藩がエスパーニャと貿易を行うとの理由で、徳川家康からガレオン船の建造と、使節をエスパーニャへ派遣する許可、すなわち“外交権”を獲得した。このようなことが可能であった大名は、日本全国の大名の中で伊達政宗の他にはいない。 この事実は、伊達政宗が“他の大名達とは別格の大大名であった(副将軍格であった)”ということを示している。

 仙台藩とエスパーニャとの貿易(太平洋貿易)交渉のための“外交使節”が、この慶長遣欧使節である。 その意味で伊達政宗の慶長遣欧使節は、これに先んじた天正遣欧少年使節が“キリシタンの本山詣で”であったこととは、その意義が全く異なる。

 伊達政宗はサン・フアン・バウティスタ号を用いて、それまでの日本人とは異なり、仙台藩の側から外国を訪問して主体的な貿易を行おうと試みた。この点で伊達政宗の貿易構想は、それまでの日本人が行ってきた南蛮貿易と大いに異なっていた。 この壮大な貿易計画のために整備されたのが、港町石巻である。

 このような事を考えたのは、日本全国の大名の中で伊達政宗の他にはいない。なお支倉常長は、「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。

  • 伊達政宗からローマ教皇にあてられた書簡
     慶長遣欧使節は、“日本が初めてヨーロッパの国と外交交渉をした”画期的な出来事であった。のちに明治維新の戊辰戦争で仙台藩、会津藩を倒し明治新政府を樹立した薩長藩閥政府は、岩倉具視を全権大使として“欧米視察”の旅を行った。 この岩倉視察団には、長州藩の木戸孝允、伊藤博文、薩摩藩の大久保利通らが加わっていた。彼ら明治新政府の首脳たちは、欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し、大きな劣等感にさいなまれていた。 このとき岩倉視察団がヨーロッパで見たものは、はるか250年以上も前に仙台藩主・伊達政宗が、スペインで外交交渉を行いローマまで使節を派遣していた、という衝撃的な事実であった。岩倉ら日本政府の首脳たちがいかに勇気づけられたかは、想像に難くない。

     伊達政宗がローマ法王へ宛てて書いた芸術的な親書、ローマ法王の肖像画、支倉常長の肖像画、支倉常長のローマ市民権証、支倉常長がスペイン、ローマ、フィリピンから持ち帰った品々、などが仙台市博物館に保管・展示されており、それらの慶長遣欧使節関連資料は、“歴史資料として日本で初めて国宝に指定”された。


  • サン・フアン・バウティスタ号

     江戸時代の仙台藩主、伊達政宗が仙台領内にて建造したガレオン船のこと。政宗が仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、約500トンの最初の日本製西洋型軍船である。

  • サン・ファン・バウティスタ号(復元)
    慶長18年(1613年)に建造された。
    建造地は宮城県石巻市の雄勝湾(旧、雄勝町)である。

     ・建造日数:45日
     ・造船工:800人、鍛冶:700人、
           大工:3000人が参加
     ・排水量:500t
     ・全長:55m
     ・最大幅:11m
  •  雑  学

     「鼻紙のこと」
     サン・トロペス候及び、サン・トロペズ候夫人の記述によると、仏人の目に映じた日本人の奇異な習慣の一つは鼻をかむに際して鼻紙を用いることである。 これは民俗学的にいえば清潔を愛する日本人として当然のことであるが、布片すなわちmouchoirを用いている欧人にはまことに意外なことだったに相違ない。 鼻紙ついて驚いたのは仏人ばかりではない。他の人々にも注目されたことは、ローマ、ヴァチカン図書館Biblioteca Vaticana所蔵の古文書、1615年10月31日のローマ通信にも
    "一行は皆木の皮製の紙一帖を有し、その一枚を以て鼻を拭い、その度毎に之を棄つ。"
    とあるので明瞭である。


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    • 引用元
    • ウィキペディア
      書籍「伊達政宗 文化とその遺産」小林 清治/[ほか]編  里文出版
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