伊達 政宗


伊達政宗の家臣には様々な人たちがいますが、その中でも後世において「伊達の三傑」と言われた成実、景綱、綱元、 そして慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した支倉常長を紹介致します。

   ・伊達 成実

   ・片倉 景綱

   ・茂庭 綱元

   ・支倉 常長


引用元
  (天下の独眼竜 伊達政宗 http://park6.wakwak.com/~masamune/kashin.html)




伊達 成実 だて  しげざね (1568〜1646)

仙台藩一門。通称「藤五郎(とうごろう)」。父親は政宗の曾祖父植宗の息子伊達実元(さねもと)。

伊達軍団随一の猛将で数々の軍功をあげる。関白秀吉の小田原参陣の要請に対し、「秀吉と一戦交えるしかない」と、あくまでも秀吉と戦う姿勢をとったといわれ、主戦論者の性格をよく物語っている。

政宗より1つ年下であり、政宗にとっては家臣というよりも兄弟のような存在であった。そのような成実はときに政宗に対し反抗的な態度をとることもあった。 有名なエピソードとしては文録4年(1595)に政宗との確執により高野山へ出奔していたことがある。 確かな理由は定かではないが一説によると成実の軍功に対する政宗の評価が思いのほか低かったことによるものといわれている。 出奔していた時期の成実は徳川家康の家臣に、または上杉景勝に5万石の待遇で招かれたこともあった。(成実はどちらの話も断わっている。) この成実出奔は大変不幸な結果をまねくことになる。未だ一家の当主としては若い政宗はその若さからくる短絡さで成実に対する怒りを成実の治めていた角田城へぶつけた。 伊達家が伊達家を攻めることになり、なんと成実の妻と子供を自害させてしまうこととなった。出奔してからおよそ5年後に片倉景綱、留守政景等の説得により成実は伊達家に帰参をするが、その成実に政宗は一生後ろめたさを背負うこととなる。 しかしさすがは伊達家の猛将といわれる成実である。妻子を失ったのは自分の責任であると悟り、帰参後は政宗に対しさらなる忠誠心を持つことで、政宗もまた成実に対する厚い信頼感をもって応え、今まで以上に主従関係を固くすることとなった。

政宗よりおよそ10年長生きをし、晩年は太平の世となった将軍家光の時代において、合戦経験のない武士達へ幕府から「戦話(いくさばなし)」の講師に要請されることもあった。 そのとき外様大名の家臣という身分でありながら、籠に乗って江戸城を訪れるという破格の待遇を得ていた。

猛将という印象の強い成実であるが、文筆家としても才能を持ち、世にいう「成実記」はありし日の政宗及び伊達家の状況をよく著しており、現代でも貴重な仙台藩関係の基本資料となっている。享年79歳。 

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片倉 景綱かたくら かげつな (1557〜1615)

通称「小十郎(こじゅうろう)」。後世において上杉家の名軍師「直江兼続」とともに天下の二大陪臣といわれる。 大名家の一家臣でありながら大名クラスの領地(景綱は1万6千石)を持つ身分であった。

父親は米沢八幡の神職で、似たような家系の背景をもつ輝宗の重臣「遠藤基信(えんどうもとのぶ)」(基信は修験者の息子)から推挙されて梵天丸の守役(もりやく)となる。

政宗にとって景綱は信頼の厚い家臣である以前によき兄のような存在であったと思われる。 梵天丸時代の政宗の器量をいちはやく見抜いたのは景綱であり、政宗より10才年上であることが常に政宗をリードする立場となっていた。 梵天丸時代の逸話として有名なものにつぎのような話がある。疱瘡を患った後、梵天丸の右眼は飛び出したような状態になっていた。梵天丸はそのような醜い顔を常に気にしていた。 景綱は他の者がけっして触れようとしない梵天丸の右目のことに対し「そのように飛び出した状態では敵の手につかまれたら大変です」とずばりと言った。 他の者は景綱は梵天丸に斬られると思った。しかし伊達家嫡男の意識を持ちはじめた梵天丸は景綱にこう言った、「ならばこの右目を切ってくれ、そうすればつかまれる心配はなくなる」と。 景綱は小刀を手にとり、一瞬に切り取ったという。梵天丸と景綱のすばらしい主従関係である。

景綱には姉(一説には母)の於喜多(おきた)がおり、彼女も梵天丸の乳母として梵天丸の成長に多大な影響を与えた。 ゆえに伊達政宗という人間の基本型はこの片倉姉弟によって造られたといってもよい。

政宗が家督を譲られてからはじめての大合戦「人取橋の役」では劣勢にたたされていた政宗を救うべく、景綱は「わたしが伊達政宗だ」と名乗り、敵軍を自分のところへ一斉に呼び込ませることによって、政宗を救ったという。 その他にも数々の功績をあげ、後に白石城主として1万6千石の領地を与えられる。この白石は会津との国境に接しており、政宗にとっては仙台藩の南の要害として非常に重要な土地であり、そのことからも政宗の景綱に対する期待と信頼が伺える。 秀吉の小田原参陣要請を聞き入れるよう政宗に申し出たのが景綱であった。もしも政宗が景綱の申し出を聞き入れなかったら現在の「独眼竜 政宗」という戦国のヒーローは存在しなかっただろう。 そのような「智将」片倉景綱を秀吉は5万石の大名として、徳川は江戸に屋敷を与えようと言ってきたが、どちらも固く断わった。 「伊達家に奉公することは、すなわち天下に奉公すること」と政宗への絶対なる忠誠心をつらぬいた。享年59歳

息子の小十郎重綱は「大坂夏の陣」において敵将「後藤基次」を討ち取り、家康から「鬼の小十郎」と異称され、天下に「伊達に片倉あり」を轟かせた。 ちなみに重綱の正室はかの有名な「真田幸村」の娘「お梅」であり、政宗と幸村とういう役者の繋がりにロマンを感じる。

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茂庭 綱元もにわ つなもと (1549〜1640)

政宗よりも18年早く生まれ、政宗よりも4年長生きをした。実に政宗の生涯がすっぽり綱元の生涯に収まってしまうことになる。家臣の中で成実、景綱の存在が常に目立っているが、それはつまりこの二人は合戦の場においての実績が明確であり、且つドラマチックであったためである。 ではこの綱元はどのような働きをしていたのか。綱元も当然戦国期においては軍功を数多くあげている。 しかしそれよりも世の中が徳川幕府が治める太平期になり、政宗が近世大名、いわゆる政治家として脱皮をはかる時代において、対幕府の折衝または伊達藩の運営という役割を政宗の代理という立場でおこなうという重要な働きをしたことが綱元の全てである。

父親は「鬼庭左月良直」(おにわさげつわよしなお)といい、「人取り橋の合戦」において政宗を襲う敵軍の猛攻を阻止するべく、73才という老体ながら先頭に立って防戦をし、壮絶な討死を遂げた伊達家の重臣である。 良直は老体の身であることを理由に甲冑を身に付けず戦ったという。

鬼庭家は伊達家初代朝宗の代からの家臣で15代晴宗のときに一族に列せられている。

綱元と片倉景綱は於喜多にとってはどちらも弟である。於喜多は綱元の父良直と正室の娘である。 男子に恵まれない鬼庭家であったが正室ではなく側室との間に男子が生まれた。この男子が綱元である。 正室は良直から離縁され、その後娘の於喜多を連れて片倉家に嫁ぐことになった。すると皮肉にもまもなく片倉家では男子が生まれた。 この男子が景綱である。よって片倉家、とくに景綱と鬼庭家との間には多少の確執があったと思われる。

綱元も成実のようにある時期伊達家から離れていたことがあった。理由は秀吉から器量を買われた綱元が秀吉より屋敷を与えてもらう話があった。 しかし綱元はその話を断わるとそのかわりに「香の前」とい秀吉のお気に入りの側室を賜わった(一説では秀吉との賭け囲碁で綱元が勝ったその褒美ともいわれている)。 政宗としては綱元が秀吉に接近し秀吉の家臣に招かれるという噂と、しかも美しい秀吉の側室までいただいたという理由から綱元へ不信感と嫉妬感をいだくようになったという。その結果政宗は綱元へ隠居するよう命じる。 しかも知行は100石以内である。このような状況のもと、綱元は香の前を連れて伊達家を一時離れることになる。 政宗に赦されて帰参した綱元は香の前を政宗に献上してまるくおさまるが、要は政宗は香の前に惚れてしまっていたのであり、すべては政宗のわがままによるものと思われる。

姓が「鬼庭」から「茂庭」になったのは秀吉による朝鮮出兵(世に言う「文録の役・慶長の役」)の為の上京時のことで、秀吉が綱元の器量を認め、家臣に招きたい意向から綱元へ与えたものである。 太閤から直接姓を賜わることは名前と違い異例のことであり(姓は子々孫々伝えられるものである)、「鬼」が「庭」にいるよりも「お家の繁栄」を願ったほうがよいだろうとのことからといわれている。

綱元は政宗が没した4年後にこの世を去るが、なんと政宗と同じ日に亡くなっている。政宗がこの世に生まれてから死ぬまで全てを見とどけ、さらに同じ日に亡くなるとは、綱元こそ伊達家ナンバーワンの忠義な家臣であろう。享年92歳。

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支倉 常長はせくら つねなが (1571〜1622)

通称「六右衛門(ろくえもん)」、日本史においては主君の政宗よりも有名である。単なる親善の目的ではなく、交易等のためにヨーロッパへ渡ったのは支倉常長が率いる使節団がはじめてであった。世に言う「慶長遣欧使節団」である。

慶長18年(1613)「サン・ファン・バウティスタ号」という大船で牡鹿郡月ノ浦(宮城県石巻市)より出航、メキシコ、キューバを経てスペインに上陸した。 この使節団の真の目的は今だ解明されていない。その理由は使節団の送り主が「伊達政宗」という権謀術数に富んだ武将だからである。一般的には政宗は単なる表の責任者で実際は徳川幕府の使節団で交易を目的としたものであるという。 しかし一方では政宗は仙台藩独自の交易および軍事要請のためのものであったともいう。 どちらにしろ常長にとっては帰国後不幸な人生を歩むこととなった。

常長はローマ法皇より洗礼を受け、ローマ市民権を与えられ貴族に列せられた。しかし使節団としての目的は達せられず、8年の歳月を経て帰国をする。 しかし帰国した日本はキリシタンに対する状況が変わっており、徳川幕府によるキリシタン弾圧がおこなわれていた。 政宗も幕府の決定には逆らえず、藩内においてキリシタン狩りをおこなっていた。

帰国した常長は派手な迎えを受けることなく、人前から忽然と姿を消した。 一説によると政宗が綱元に常長の保護を頼んだといわれる。52歳で没するが、その墓は特定されていない。

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